良心で事を単純化して、他の問題から目を逸らすのがいい人か

「ママぁ…?あたまいたいの?」
うつむいて額に手を当てる母親に、年端も行かぬ子供が心配そうなまなざしで声を掛ける。
「ごめんね。もう大丈夫よ、バ○ァリン飲んだから」
母親が子供に笑みを返すと、それを聞いた子供の顔にも安心と笑みが戻る。

人は、文字の読み方も習わぬうちから、目の前の苦しんでいる人を心配する。目の前に痛みを感じている人が居たら、その痛みに共感し、痛みからの解放を願う。これは、社会的生物として進化してきた人間が、生得的に持つ宝だ。


どこかで歪んで壊れてしまった者でなければ、この素朴な宝を、幼児期から成人、老いて果てるまで、精神の中枢で灯し続ける。この宝は、その由来の通りに、人の社会をより安らかに維持し、脆弱な ヒト が生きていくために、ヒトという生物のキーパーツとして働く。



しかし、ヒトの社会は、サルのそれから遙か遠くに来てしまった。



愛する家族を殺められた者が、その愛ゆえに銃を手に取る。誰かの笑顔のために用意したご馳走が、地球の裏側の数知れぬ子供達の命を繋ぐ糧を奪う*1。自ら望んだ事が、自分に利するのでなく他者を利する。社会は、技術の発展と共に物事の威力が増し、そして高度に複雑化してしまった。この社会は、素朴な宝の力だけでは安らぎの中に栄える事がもはや出来ない。素朴に宝の示すままに従えば、かえって誰かを傷付け、社会を安らぎから遠ざけてしまう。


しかし、サルから遠くに来たのは社会だけではない。ヒトは、宝を持ち続けながら、知恵を大きく発展させた。この知恵を内に持つ宝の灯し火に従って正しく使い、この宝が本当に望む社会へ近づけて行く。それ以外に、ヒトが安らぎを取り戻す手はない。この社会では、貧困に喘ぐ者達のために、逆に賃金を引き下げるという事を真剣に検討しなくてはならない。それは、何かを守るため、素朴な宝に比してあまりに奇っ怪な検討や手続きを要求したり、ときに素朴な思いでは見えない物を見る事を要求する。


先週末、はてなで苦痛を訴える者があった。訴え方は社会的に衆目を集める方法を用いたうえで*2、この社会で特定の機能を持つキーワードを使って、加害者を名指しした。どちらもはてなの有名人であり、野次馬がどやどやと集まった。


目の前に、苦痛を訴える人がいる。苦痛の度合いは少なくとも本人でなければわからない。集まった人達の中の一部は、当事者が用いたキーワードの社会的機能について述べた。そのキーワードは、本人にも、投げかけた先にも、不要不当な痛みをももたらしうると。

一方の嗜好・主観のみが正義とされ一方には絶対的な悪のレッテルが貼られペナルティが課せられる。さらに「被害者」自身も言葉に引っ張られて、被害の実際の軽重に対して過度な被害感を持ってしまい、軽微な事も過大な問題に認識して過剰な心的負担を負いかねない。

http://d.hatena.ne.jp/kentultra1/20090214#1234604147

これに対して付いたブクマの中で、ある者はこんなブコメを付けた。

kurokuragawa これはいたい, コミュニケーション 「足を踏まれてるのでちょっとどけて」と頼むのと何も変わらないはず(本来であれば) 2009/02/15

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/kentultra1/20090214%231234604147

彼は自分の素朴な宝に、強い誇りを持っていたのかも知れない。目の前の苦痛を訴える者を差し置いて、その苦痛以外の事を述べる者に、宝のレベルの低さを見て取り、「これはいたい」と断じた。そのうえで、この件に関して以下のような記事を公開した。

頭でっかちで肉体性の感じられないご立派な正論。どうもそういうのが苦手で、なかなか読む気になれないし、読んでも頭に入ってこないのである。

私が思うに、セクハラを受けるのはつらい体験、精神的な痛みであり、それは満員電車の中で足を踏まれるのに似ている。

(略)

面倒な問題が持ち出されて話が大きくなることが多い、ような気がする。以前からそういう語られ方に疑問を持っていて、もっと単純に、肉体感覚で「痛いものは痛いんだ」という話をすればいいんじゃないかと思っていた。

http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/e/e9fff07cb7017ee829081285db8f85fa

この記事は多くの人の目に触れ、そしてそれらの内の我々の宝に響いた。この共鳴は、我々のキーパーツの健在を示す、ヒトとして誇らしい事例だ。しかし、それは足を踏む足をどけるという具体的な苦痛の除去を行わない。そして、キーワードの社会的機能をなき物とすることで、そのキーワードによって誰かが傷付く事を結果として促している。それは、本当にその宝の望む事なのだろうか。


この記事を書いた者は、キーワードの危険性を訴える者よりはるかに高い知恵を持つ。正しく使えば、より社会を安らぎに近づける力。それが強い宝の輝きによって曇らせられ、その宝の望みと反対に働くとしたら、非常に悲しい事だ。

*1:単純に寄付に回す可能性を排除したという事も、先進国のご馳走用の作物を作るために安価な食料の作付けが削られるとかいう事ももろもろ含めて言っている

*2:idコールが届かなかったとしても、高いリテラシーを持つ者には多くの手段があったが、当事者はこの方法を選択した